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漱石のセルフアートセラピーは、漱石の人生と創作をどうジャンプさせたのか?~漱石エッセイ(24)







漱石のセルフアートセラピーは、
漱石の人生と創作をどうジャンプさせたのか?
~漱石エッセイ(24)


今回は、漱石の〈セルフアートセラピー〉とも言うべき、
余儀の「作画」について。


漱石は、帰国後もロンドンで高じた神経衰弱で悶々としたが、
水彩の絵葉書を描きつつ、
元気を取り戻し、
『吾輩は猫である』を書いて作家になった。

少年時に胸の深くに抑圧された
小説家になるという夢までを掘り起こして実現させ、
後の自らの人生を救ったとも言えよう。

職業作家になり、
胃潰瘍の30分の仮死状態を経て、
『彼岸過迄』『行人』を書きあぐねた後には、
津田清楓による南宋画の指導を受け、

「ありがたい気持ちになる作品を」という境地に辿り着き、
名作と言われる『こころ』が書けた。

その後も作画は続き、
妻・鏡子との新婚生活を振り返る新境地の『道草』、
また人間関係の一大パノラマと化した絶筆の『明暗』
を書くことができた。

職業の執筆とはジャンルの違う
余儀の作画(執筆よりも右脳的な作業である)は、
漱石の夢と人生をかけた仕事の質を高めた。

それは、あたかも
セルフアートセラピーのようであった。

*以上、中沢けい さんの小説も連載された「K新聞」より

.....................................................................................
*以下に、これから全文を掲げます。↙

今回は、
神経衰弱の克服に努めた漱石の、
セルフ・アートセラピーとも言うべき、
余技の作画について振り返る。

ちなみに、
漱石の本業の執筆以外の創作には、
少年時からの漢詩や書、
正岡子規の影響で始めた俳句もあった。

絵の話に戻ると、
漱石の小説では、
『草枕』の主人公の画工が、
有名なミレーの『オフィ―リア』の絵を語る。

『三四郎』では、
原口が美禰子の等身大の絵を描き、
『門』では、骨董の屏風絵が現れる。

さて漱石自身の作画は水彩画で、
留学先のロンドンで神経衰弱が悪化し、
予定よりも早く年頭に帰国した
明治36年の秋に開始された。

帰国後、
悶々としつつ、
ついに『吾輩は猫である』を書くまでには、
約2年の月日があった。

当時は、
自作の絵葉書のやりとりが流行していた。

漱石は、
弟子の寺田寅彦や野間真綱、
「ホトトギス」の挿絵画家の橋口貢、
弟の五葉、

作詞家の土井晩翠や、
大塚保治・楠緒子にも、
色あざやかな水彩画の絵葉書を送った。

自由な作画は、
漱石の精神衰弱の緩和と、
作家になるという、
心の奥にしまわれていた「夢の実現」に役立ったようだ。

明治38年の年頭に、
『吾輩は猫である』の初回を「ホトトギス」に発表後、
執筆が多忙になり、
この時期の水彩画は終息した。

その後、
漱石が作画を再開したのは、
大正2年の暮れである。
漱石の弟子でもあった画家の津田青楓が導いた。

それは明治45年の『彼岸過迄』、
大正2年の『行人』と、
執筆での苦悩を体験した後のこと。

漱石は、
大きな南宋画の達磨絵を描いて自分を癒し、
名作『こころ』を書いたのである。

その後も作画は続き、
漱石の小説は、
鏡子との新婚時代を見直す新境地の『道草』、
目の覚めるような大展開を見せた絶筆の『明暗』へと続いた。

漱石の作画は、
人生とクリエイションを導く
アートセラピーのようであったと言えよう。















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